◆河戸堰・松田川/宿毛市
宿毛の北東を流れる松田川に作られた堰で、江戸時代前期、土佐藩奉行として強力に政治をすすめた野中兼山の指揮によって構築されたと伝承され、兼山独特の糸ながし工法とよばれる湾曲した形をしています。
平成7年、堰の改修にともなう発掘調査がおこなわれ、兼山当時の遺構は発見されなかったものの、度重なる改修作業の跡が現れ、兼山当時から脈々とつづく土木技術が明らかとなりました。(「宿毛歴史舘」資料より)
◆八田堰・仁淀川/いの町
河口から9km付近に現存する八田堰は、兼山が指揮し慶安元年(1648)から承応元年(1652)まで5年を要して築いたものです。
現在はコンクリートにより近代的に改修されていますが、元々の兼山遺構の八田堰は湾曲斜め堰で、施工にあたっては流水との調和を図るため川に綱を張り、流水による綱のたわみぐあいを調べて堰の方向や形状を決めたといわれています。
また、左岸に弘岡井筋を作り、吾南平野約900haの灌漑用水路としてだけでなく、高知城下へ通じる物資の運送路としても利用していました。(「国交省河川局HP」より)
◆龍馬堤?・四万十川/四万十市平元
坂本龍馬が、四万十川の河川工事に携わったという記録があります。地元の郷土史家、数名が酒席で、はたして龍馬はどこの工事をしたのかということになり、古文書等で検証した結果、平元の堤(現在は「桜づつみ公園」)ということで落ち着きました。龍馬が改修工事に関わったであろうこの堤は、元々は、兼山が構築した水制(はね)という説もあります。
この公園を管理する国交省へ、堤の名称を「龍馬づつみ公園」に変更するように、お願いするとともに、この公園を「歴史・文化による地域おこし」の起爆剤にしたら・・・という落ちで、郷土史家の酒席は、お開きとなりました。
【写真】昭和10年に建設が始まった四万十川右岸堤防起点「平元の風景」