■市川 昌氏(高知市)
◆それは新荘川からはじまった・・・
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■市川 昌氏の『戦争の語り部コーナー』
私が、小学校4年生ごろの、須崎の新荘川の風景です。
([001]から[004]・昭和8年)
川で鮎を獲ったり、蝉やとんぼと遊んでいる頃、私たちが知らない間に、恐ろしい戦争がだんだんと近づいていました。
この絵の少年達も、数年後は戦場へ行き、二度と帰らぬ子も、たくさんいました。
貧しくとも、このような平和が長く続くことを、日本人の誰もが願っていました。
◆プロフィール
市川 昌氏
『四万十川漫画大会に応募のありました、市川昌氏の『戦争の語り部コーナー』は、風化し忘れられていく戦争の悲惨さ、愚かさそして平和の尊さを、戦争体験者の「語り部」から、漫画で語り伝えようとする特別企画です。
作品は20数点にのぼりますので、順次この会場(バーチャル)で、ご紹介してゆきます。』
【漫画】市川昌氏(不破川愚童斎・画)
(関連ブログ)
追手筋の「日曜市軒先まんがギャラリー」が生れるまで
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[001] 私の少年時代・1
新荘川(高知県須崎市/津野町)の自然の中で、このように育っていきましたが、何も知らない子供たちの足元にも、戦争は忍び寄っていました。
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[002] 私の少年時代・2
私たちは貧しい生活ながらも、こうした自然の中で健康で楽しくスクスクと育ちました。自然とは良いものですネ。
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[003] 私の少年時代・3
どの家庭も子沢山で貧しいため、子供たちは川で獲った魚を売って、学用品を買ったり、修学旅行代にと貯金をしました。
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[004] 私の少年時代・4
黒皮を削り取って日干しにして仕上げる。12時間労働で、わずか26銭は米1升の値段であった。今でいえば、1日働いて300円くらいである。当時の葉山村は貧乏であった。そんな故郷、葉山村での出来事。
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[005] 経済制裁
日本は増え続ける人口対策として、満州国を創り、沢山の移民や軍隊をこの国に送り込みました。
この行動を侵略行為として、世界の主要国が、石油、鉄、ゴムをはじめ、砂糖、米などの食物までを日本に輸出しないというABCDラインをつくりました。
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[006] ハワイ攻撃
困り果てた日本は、最後の手段である戦争を選びました。昭和16年12月8日 遂にアメリカの軍事基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃しました。野球で言えば、1回の満塁ホームランほどの効果がありました。
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[007] 海軍少年兵を志願
私たち、当時の子供たちは、憂国の至情を燃やして、男子は軍人、女子は看護婦さん志望がほとんどでした。
私は、16歳で海軍少年飛行兵を志願しました。しかし、この時は胸囲不足で、不合格。この年の葉山村出身の合格者は8名でしたが、7名は戦死しました。
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[008] 満州開拓団へ
海軍少年飛行兵に不合格でしたので、満州開拓団へ行きました。米作りのボランティアです。そこは、想像もつかない奥地で、電燈はなく、病院はもちろん、医者も居りません。町まで徒歩で、3時間かかりました。この開拓団も3年後には敗戦となり、悲惨なことになります。
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[009] 満州から中国へ
中国南京で陸軍軍属として働きました。第2回目の試験を受けるため上海へ。
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[010] 中国南京
昭和18年の南京の様子です。
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[011] 海軍少年兵1
17歳でやっと合格し、鹿児島海軍航空隊に入隊しました。
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[012] 海軍少年兵2
この頃になると、南方では負け戦続き。太平洋の至る処の島々で、全滅の悲報が入ってきました。
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[013] 海軍少年兵3
私たち、少年飛行兵の教育も厳しさが増してきました。
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[014] 太平洋戦争1
昭和20年4月1日、連合軍は沖縄本島に上陸。同年6月23日日本軍守備隊全滅。犠牲者軍関係95千人、沖縄県民100千人。この後、米軍は沖縄の飛行場から日本本土の爆撃を繰り返し、国内の都市は、ほとんどが焼け野原になった。
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[015] 太平洋戦争2
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[016] 太平洋戦争3
飛行機のない少年航空兵は・・・
(画面をクリックしてください。コメントが読み取れます。)
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[017] 太平洋戦争4
震洋特別攻撃隊には15・6才の少年飛行兵が・・・
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[018] 太平洋戦争5
少年飛行兵の遺書。お母さん出撃です・・・
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[019] 太平洋戦争6
この絵は、18歳のとき。戦友の吉岡君(16歳)と食事当番で準備中、米軍機20機に襲撃されました。近くの防空壕に掛け込みましたが、この豪では危ないと思い、遠いけれど、士官用の丈夫な豪へと誘いましたが、彼は動きませんでした。爆撃が終わって帰ってみると、彼は爆弾で片足を吹き飛ばされて、戦死していました。
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[020] 原子爆弾
昭和20年8月、米軍は広島、長崎に原子爆弾を投下、死者20万人を出しました。そして、同年8月15日終戦。
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[021] 満州開拓団は・・・
敗戦の色が濃厚となった頃、最も悲惨なのは満州国開拓団です。男子を戦争にとられ残った婦女子は国境を越えて襲ってくるソ連軍と中国人に襲われ、逃げまどいました。残留孤児は、このときの子供たちです。
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[022] 列車事故
終戦直後、九州では、早く故郷に帰ろうとした少年兵が、列車事故で56名死亡しました。
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[023] 進駐軍に・・・
焼け野原になった日本国にやがて米軍をはじめ連合国軍がやってきました。焦土の街で、子供たちは群れをなして進駐軍に菓子をもらっています。この姿は、2年前の中国の姿でした。高知市も東は城見町から西は上町5丁目近くまで、一面の焼け野原でした。
(終わり)