■バックナンバー(古新聞)
<平成17年12月>
第5号 (2005.12.04)
「引越し」・・・のなぜ?
第6号 (2005.12.11)
花子
第7号 (2005.12.18)
カヌーと沈下橋
第8号 (2005.12.25)
歴史・文化で、まちおこしを・・・
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(「切り抜き」第8号より)
[バーチャル・四万十川の歴史探訪]
■龍馬堤
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の直前、すなわち龍馬16歳の冬のこと。
若き坂本龍馬が、はるばる高知のお城下から、幡多の中村までやってきて、四万十川堤防工事の監督をしたことは、知らない人は知らないけれど、知る人ぞ知る有名な話しである。
かっての四万十川は、この右岸の堤防の先端(平元)から、具同方面への流れ(「元池」「井ノ上川」(法律上は一級河川)として、その痕跡を遺している。)と、現在の本流、百笑の渕沿いの流れ、それにもうひとつ、現在は右岸堤防となっているところにあったという南北に長い丸池の流れ、と平元付近から、大きく3分して流れていたという。
平元は、中村の四万十川治水工事をする上でのキーポイントだった、と地元の郷土史家は語る。
そのようなことから、竜馬も関わったという、藩政時代の四万十川改修工事は、もっぱら、この平元で行われたらしい。
【写真】四万十川(四万十市平元)
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[ひとくちメモ]
■中村市史(第2章・奉行時代 P449)
坂本龍馬がやはり幡多へ来ている。勤王史(維新土佐勤王史)に『龍馬は16才(嘉永3年)となるや、偶々、島某が工事を督して幡多郡に出張するを聞き、父の命によりて随行せしが、その工夫を使用するに妙を得たりければ、島某もひそかに末頼もしき若者よ、と思いけり。』とある。
地元の古老の談に『坂本龍馬はこっちへ工事監督に来ていたが、人づかいが上手で、龍馬の監督の時は面白く仕事が出来て、いんでから(帰宅後)うんと(大変)、ことうちょった。(疲れていた。)』といったことを聞き書きしている。
上記と符合する。
◆四万十川と坂本竜馬の関係は、ここで>>>
竜馬が四万十川にゆく
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